蹄の音を聞いたら

医師のあいだで言い習わされている格言に「蹄(ひづめ)の音を聞いたら,シマウマではなく馬を探せ」というのがあります。ある症状に対し、珍しい病気ではなく一般的な病気を思い浮かべて先ずは診療に当たれということです。咳をしている患者を診たら好酸球性多発血管炎性肉芽腫症を念頭におくのではなく、最初は一般的な肺炎や気管支炎を考えて診療を開始しなさいという戒めです。

この格言に関し、医療の危機管理上ちょっとだけ気にしなければならない部分があると感じます。例えば、若い方で重症肺炎と診断した場合に渡航歴を必ず聞くこととしています。特に中東近辺に行っていたと解ったら、ラクダとの接触があったかは聞くべきでしょう。ピンと来た方もいらっしゃると思います。そう中東呼吸器症候群(Middle East Respiratory Syndrome (MERS))です。

患者から分離されたMERSコロナウイルスと同じウイルスが、中東地域のヒトコブラクダから分離されていることなどから、ヒトコブラクダがMERSコロナウイルスの保有動物であるとされており感染源の一つとして疑われています。また、2015年には韓国で中東地域に出張した68歳の男性からエピデミック(国単位での感染症の流行)が起こり、最終的に186人が感染し38人が死亡するという事態が引き起こされました。この様な事態を防ぐために最も大切なのが初期対応です。

診療をしていて「何で言ってくれなかったんだ」と患者さんに言うと「だって聞かなかったじゃない」と言われます。必要な情報を適切に患者から聞き出すことも、医師の大切な診療能力であることを先輩医誌から教えていただいたことを思い出します。診療の現場では時にMERSという“シマウマ”も想定しておかなければならないのは、MERSが非常事態であるからでしょう。

それにしても格言は人類の知恵の蓄積であると同時に、時代と共に状況が移り変わると実感できなくなるという面があるなと感じます。蹄の音で何かを想像する人生を送っている人が日本に何人いるでしょうか?蹄の音が緊急事態を示し臨戦態勢を取る時代があったのかもしれません。でも、現時点での私にとって、この格言の意味や大切さは理解できますが、なるほどと思うようなリアリティを全く感じません。“河童の川流れ”といってもぴんとこないよね。

*本稿は私見であり、私が所属するいかなる組織の公式見解ではありません。

(櫻井 淳、日本大学医学部救急医学系救急集中治療医学分野 診療教授)