医療事故に遭うということ

前回は医療事故を悪と考えて罰することは医療安全につながらない仕組みの一端を説明しました。でも、実際に医療事故に遭った方やその家族は納得しないのではというのは“理解”し“実感”できます。おまえに何が解るんだというお叱りを受けそうなので、少しだけ自分の経験を話します。

私の妹は重度の先天性心疾患を持って生まれました。先天性心疾患の原因は多因子的で色々あるのですが、母は妊娠初期の抗アレルギー剤の投与ではないかと考えていました。先天性心疾患が判明した際に投与した医師にその件を聞いたところ「最高裁まで争うか」と言われ、また今後もその病院に妹を診てもらうこともあったので、その後は沈黙したとのことでした。今では考えられない医療側の対応ですが昔はこれが普通でした。妹の心奇形の原因が本当に医療事故であったかは今となっては解りようがないのですが、私たちの家族にとってはそれが医療事故であると事実として認識されていました。

心奇形の程度がひどく手術が不可能であったためそのまま経過をみていました。20歳まで生きられないと言われていたのですが、40歳代前半まで頑張り、数年前についに力尽きました。アイゼンメンジャー症候群による肺高血圧で体に酸素を取り込むことが出来なくなったため、苦しみながら、それでも最後まで生を望みつつ逝ってしまいました。

愛する人を失うかもしれないというのは恐怖です。別れの際にこれが最後になるかといつも思うこと。夜中にふと目が覚め眠れなくなりその恐怖をじっとかみしめること。愛する人を失った後は苦しみ以外の何ものでもありませんでした。夢で亡くなった妹が元気でありああ良かったと思って目が覚め、やはり亡くなっていたと悟った際に絶望感が押し寄せます。もし、あの時に医師がもう少し注意深く問診を行い投薬していなかったら、今ごろ妹は幸せに暮らしていただろうと考えるにつけ、この感情は容易に怒りに変わるのは理解し実感することが出来ます。

進化の過程で発達してきた“感情”は生き残るために必要であるから人に備わっています。それが、恐怖、絶望、怒りであっても人には必要なものなのであり、行動を起こす大きな原動力のひとつとなります。この当然の感情により、医療事故を起こした医療従事者を“愛する人を元通りにしろよ”と責め続けるのです。

この件は、人の生の根本に関わるものであり完璧な解決策はありません。しかし現在では様々な試みがなされていますので、いずれかの機会にご紹介します。

(櫻井 淳、日本大学医学部救急医学系救急集中治療医学分野 診療教授)